好きなことに理由はなくてもいい。
ただなんとなく好き。
ただなんとなく楽しい。
それで十分なんじゃないかと思う。
好きが先にあって理由は後付け
まず最初に「好き」という感覚がある。
なんとなくいいなぁ、なんとなく好きだなぁ、なんとなく楽しいなぁ。
その感覚を理性で説明しようとしたものが好きな理由なのである。
これがあるから好きなのかな?
こういう理由だから楽しいのかな?
でもそれがあってるとは限らない。
もしかしたら説明しようとすればするほど、もとの感覚からは離れていってしまうかもしれない。
理由は「好き」のひとつの要素でしかないと思うのです。
なんとなく嫌、でもいい
好きなことと同様に、嫌なことにも理由はいらない。
ただなんとなく嫌。以上。
「これがなんとなく嫌なんだぁ」「へー、そうなんだぁ」で終わり。
嫌なことにも理由はいらない。
嫌なものは嫌なのだ。
子供の頃はわけもわからず楽しんでいた
そもそも僕達にも子供時代がありました。
子供の頃は理由もなく楽しいこと、好きなことがたくさんあったはずです。
穴を掘ること、溝を掘って水を流すこと、石ころを蹴って家に帰ること、蟻の行列をただ眺めること。
時には虫を殺したり、アリの巣に水を入れたり、残酷なこともやったかもしれない。
ただそこにあるのは楽しさや好奇心だけ。
誰に強制されるでもなく、それをやったからと言って何にもならない。
ただ楽しいだけ。
そんな世界観を誰もが心のなかに持っているはずです。
もしかしたら今は忘れてしまっているかもしれない。
でも誰の心のなかにも、子供のままの自分が存在すると僕は思っています。
その子供にはとても理屈は通用しません。
やりたくないことはやりたくない。
やりたいことはやりたい。
そんな純粋な心を持っています。
でもやっぱり子供のままでは社会の中で生きていくのに摩擦が生じるのは事実だと思います。
そこで理性の出番です。
理性は感性の道案内役
僕は、理性というのは感性、つまり自分の中の子供のままの部分の道案内役なのではないかなぁと思います。
感性の部分は自由奔放で無邪気な子供の心。
放っておくと危険なことや、思いもよらない事をしだすかもしれません。
理性の役割はリスク回避や最善策を考えること。
感性が行きたがっている方向へ理性がしっかり導いてあげる。
それが理性と感性を統合させるということなのではないかなぁと思います。
もしかしたらその道案内もいらないかもだけど。